審判とゲームコントロール
夜道を歩くと虫の声。今年の夏も海に行かずじまい、だな。
佐賀北の集中力は大したものでした。でも、見ていた人は分かると思いますが、8回の審判の露骨な糞ジャッジはなんだったのか。高野連としては特待生問題のない公立高校に勝たせたかったのかねー、とは思いたくないけれど。
ジャッジをする立場の人間が妙な介入の仕方をすると、ゲームが公平に成立しないし勝敗の正当性すら問われてしまう。最近、企業の内部統制がらみで「審判」の妥当性的なことをよく考えるので、かなり気になりました。
<コントロールという言葉を誤解され、審判はフィールドの指揮者のように言われることがあるが、それは違う。(中略)試合を面白くするのはあくまでも選手だ。審判は立会人であり、起きたことを判断し、ケガやつまらないプレーを予防するためにいるのである。>(『平常心―サッカーの審判という仕事』上川徹 ランダムハウス講談社)
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