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2007.08.28

アクラシアな事態

 妙にナスがうまいと感じる今日この頃。この一週間はナスのタイカレー、ナスの味噌汁、ラタトゥイユ等々。

『アリストテレス―何が人間の行為を説明するのか? 』(高橋久一郎 NHK出版)

 さっさと仕事を片付けたほうがいいとわかっているのに、なぜ私たちは2chをのぞいたり、youtubeでくだらんVを眺めて時間を浪費してしまうのだろうか。本書はそんな「意志の弱さ(アクラシア)」についての議論を中心に、アリストテレスの「行為」に対する考え方を紹介する。

 アリストテレスは行動を「実践三段論法」によって説明する。実践三段論法とは何かが邪魔したり強制したりしない限り、「大前提」と「小前提」の二つの前提から、必然的に一つの行為が導かれるというものだ。大前提とは「善いもの」への欲求であり、小前提とはそうした行為を「可能なもの」にする個別的状況についての認識であるという。例えば、こんな具合…

<「私は飲むべきである」と欲望が言い、「これが飲み物だ」と感覚なり表象なり理性なりが言うと、彼はただちに飲む。>

 この文で大前提は「私は飲むべきである」、小前提は「これが飲み物だ」、そして行為は「飲む」ということになる。

 しかし、人間は「そうしたほうがいよい」という欲求と、「そうすることができる」という認識があったとしても、必ずしもそうするとは限らない。著者も<帰結するのは「私はこれをすべきである」という判断にすぎないように思われる>と指摘する。例を挙げると、デヴが「甘いものを食べないほうがよい」と知っていて、冷蔵庫に甘物があると認識したとき、「私はこれを食べるべきではない」と判断するかもしれないが、帰結としての行為はきれいさっぱりたいらげる、ということになるからだ。

 どうしてこのようなアクラシアな事態が起こるのか。著者は<アクラシアは「無知な状態での行為」である>とする。つまり、意志の弱いデヴは甘物を見つけたとき、実践三段論法の大前提を一時的に忘れてしまい働かなくなるために、おのれのメタボリックな腹回りなどお構いなしにバクバク食ってしまう、というわけである。では、なぜ大前提を持っている人が、それを忘れ、働かせなくなってしまうようなことが起こるのか。その答えとして挙げられているのが、次のアリストテレスの言葉である。

<学習したばかりの人でもロゴスを繋ぎ合わせることはできる。だが、彼等には何も分かっていない。そのためにはロゴスが相互にしっかりと結び合わされ〔性向となら〕なければならないが、それには時間を要する。>

 この辺りの議論は、わりと納得のいくものだと思われる。まず、実践三段論法の大前提にあたる「善いものへの欲求」を知ること、次にそれを性向として身につけること。そこにアクラシアを克服し、人が物事を為せるようになるかどうかのポイントがあるような気がするが、どうでしょう。

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