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2006年9月10日 (日)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん②

返品の山を前にして、社長に伝えた言葉

 大手メーカーを退職した鴫原さんは、小さなアパレル会社でデザイナー見習いとして働き始めた。

「この会社は日本でデザインを描いて中国で生産し、量販店に卸す仕事をしていました。そこにはデザイナーが数名いて、週に一回、企画部長にデザインを提出することになっていましたが、私はデザインは描けても型紙を引くことができません。それである時、先輩のデザイナーに相談しに行ったら、私のデザインがそのまま盗まれた…。

 それで型紙を知らないと服飾デザイナーとしてダメだとわかり、一念発起して夜間の専門学校に入学しました。今考えると、デザインを盗まれたことは良かったと思います。その出来事がなければ、型紙という基本を学ぶチャンスがなかったんですから。

 その後、募集広告を見て別のアパレルに転職。ここは出社するのは週2日でOK、残り3日は自分の好きなようにリサーチして、売れるデザインを必ず持って来なさいという面白い会社でした。給料もよかったので応募者がたくさん来たのですが、なんとか採用されることになりました。

 この会社には大きな企画室があり、その場にパタンナーやテキスタイルデザイナー・縫製技術者がいて、自分たちがデザインを持っていくと次の週にはサンプルができる仕組みになっていました。つまり、服をつくるという作業の全体を見ることができたので、自分にとってとても勉強になりましたね。

 その頃は夢中で仕事をしました。会社は青山にあって、仕事が終わるとファッションチェックを兼ねてみんなでクラブに繰り出すですが、私は一足先に帰宅してひたすらデザイン画を描いていました。みんなが出すデザインの2倍提出しよう。そう決めていたんです。でも義務感ではなく、デザインのアイデアは次々に湧きあがってきて、とにかく、あれもこれもつくりたくてしょうがなかった。これは私の性格ですね」

 そんな人一倍の頑張りが認められ、鴫原さんは24歳という異例のはやさで自分の名前がついたブランドを持つことに。だが、はじめから成功できるほど簡単な世界ではなかった。

「その頃の私のニックネームがチャオだったので、ブランド名は『ミルキーチャオ』。今思い出すと赤面ものですが(笑)、私のデザインしたものが店頭に並ぶのが本当に嬉しくて、よくディスプレイを見に行きましたよ。

でも、2ヶ月くらいたつと、会社のストックルームに返品のダンボールが日に日に増えていきました。その現実を目の当たりにして、大いに凹むと同時に大反省しました。私はものをつくることの根本をわかっていなかった、と。私は自分が着たいものをつくっていただけなんですね。

その時、私がつくっていたのは部屋着でかつ近所に出かけることもできるワンマイルウェアという、当時としては新しいカテゴリーの商品で、全国の量販店に卸して販売していました。今の自分の目で失敗を分析すると、新しいジャンルに消費者のニーズが追いついていなかった上に、どう着たらいいのかもわからなかった。

 何より、商品のターゲット設定があいまいで、そこに自分が着たいものを提案したのがいけなかった。当時、私は20代前半でしたが、ワンマイルウェアを着る層は当然ミセスですから、ターゲットと商品にズレがあったんですね。

あまりに返品が多いので、ある日、社長に謝りに行きました。『責任を取って辞めたほうがいいでしょうか?』。私がそうたずねると、社長にはこういわれました。『それは違うんじゃない。もっと自分でよく考えなさい』。

 その時、助けてくれたのが週に2回ほど来るテキスタイルデザイナーの先輩でした。『鴫原さん、そんなことで枯れたりしたらダメ! 責任を取るって辞めることではなく、成功してお返しすることなのよ』。この先輩の本業はタペストリーデザイナーで、世界的なコンクールでの入賞経験もある方。実績のある人にそう諭されて、『なるほど!』と思いました」

 鴫原さんは再び社長のところへ行き、こうかけあった。

「この失敗は次の仕事を成功させてお返しします。だからもう一度チャンスを下さい!」

 社長はあっさりOKを出し、再び鴫原さんのチャレンジがはじまった。

「前回は何が足りなくて、今度は誰に向けて何をどうつくったらいいのか、必死で考えました。そしてつくったのがワンマイルウェアの『カラフルスウェット』というブランドです。上下揃いのスウェットはありましたが、それをアレンジして上下別に何パターンかつくり、別々に選んでコーディネートできるようにしたんです。

 このブランドは大ヒットしました。前回の失敗分は取り返せたと思います。本当に悩みぬきましたが、この時の経験がデザイナーとしてものをつくる原点になりました。ただ自分が着たい服をつくるのではなく、誰がどんなシチュエーションで着る服なのか、その服をつくって誰が喜んでくれるのか、ちゃんと考えられるようになりました。

 実はこんな大切なことを、それまで誰も教えてくれなかったんです!」

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