ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん④
企画室長を請け負い、人気ブランドを育て上げる
鴫原さんが独立したのは、ちょうど30歳のときだった。
「30歳になったときに離婚して気持ちの整理をつけたかったのと、もともと独立したいという気持ちは常にありましたから。それと母に対して『認めて欲しい』という気持ちが根底にありました。一握りの人間でなくてもデザイナーとしてやっていける、女性として働き続けられると彼女に証明したかったんです。
辞めるときは『こいつ食えるのかな』と心配されたんでしょうね。バンタンの社長が『今のクライアントをそのまま自分でやっていいよ』と言ってくれ、クライアントの方も『あなたがどこの社員であろうと、うちの仕事をやってくれればいいから』とおっしゃってくださいました。
営業は自分で売り込みに行ったり、人からのご紹介を受けたり。ファッション業界では『織部企画で働いていた』という実績がすごく効きましたね。そんな中でお仕事をすることになったのが、婦人向けの革靴を手がけていたアマガサさんでした」
アマガサでは若い女性向けのカジュアルブランド「JELLY BEANS」の立ち上げから請負で企画室長として携わり、人気ブランドへ育て上げる原動力となった。
「アマガサの仕事をはじめた当初、婦人用の靴でもバイヤーは男性の専務が担当していました。当時、それは他社でも同様で、女性用の靴なのに女性がバイヤーをやっているところはなかったんです。それで、『専務の仕入れた靴をはいてみたら、足が痛くなりましたよ。もっと女性の視点で選んだほうがよいのではないですか』と提案しました。
女性なら、みんな靴が合わず泣きたい思いをしたことがある。『そうか、それは男にはわからないね』。社長はそういって、私に仕入れを任せてくれました。実際、私と女性社員で仕入れた靴は、展示会でどんどん売れていきました。買いに来ているのは男性ばかりなので、『この靴は私が実際にはいてみてとても歩きやすかったし、デザインも可愛いですよ』と説明すると、『そういうものか』と納得して買っていただけるんです。
そうやってツーシーズン回して実績をつくった後、若い女の子のファッションという視点からアプローチした靴をつくる企画室を立ち上げ、その責任者になりました。当時はまだ一つの靴で違う服を着るのが当たり前でしたが、そうではなく、服に合わせて気軽にコーディネートできる、比較的安くてお洒落な靴のブランドをつくろうと考えたんです。
企画室は当初、女性3人でスタートしました。仕事はマーケットリサーチ、商品セレクト、メーカーへのデザイン提供、オリジナル商品の開発、MDとデザイナーの育成、プレス機能、新しいコンセプトを営業先に理解してもらうための『ファッションレポート』の発行…。こだわったのは、企画室は全員女性であること。女性が身につけるものは女性がデザインすべきと思ったからです。
アマガサに出社するのは週に1日。社長に報告を行い、3ヶ月に1度は数字の話になって、それが一番頭の痛い日でしたね(笑)。あとのスケジュールは私が自由に決めていて、他社の仕事もしていました。報酬は毎月40万円で夏・冬のボーナスも出る形。当時としてはとてもよかったと思います。
社員になれ、専業でやれという話はありませんでした。『市場が海だとしたら、会社は船で私はヘリコプターのようなもの。私は空から市場全体を見て、また船に降りて仕事をしているのだから、会社に属したら意味がない』。コンサルタントのビジュアルイメージをそう説明し、納得してもらっていましたから」
「JELLY BEANS」の成功を受け、他社からのコンサルティング依頼もどんどん増えていった。
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