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2006年9月 9日 (土)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん①

ファッションビジネスをプロデュースする女性IC

Shigihara1 「女性起業家」はもはや珍しくなくなったが、「女性IC」の存在を目にすることはまだ少ない。ファッション業界を中心にブランド構築や人材育成等を手がけてきた鴫原弘子さんは、その「女性IC」の先駆者である。

鴫原さんは若い女性向けの人気靴ブランド「JELLY BEANS」の立ち上げから企画室長として携わり、同ブランドを展開するアマガサの急成長に貢献したのをはじめ、アパレルや大手通販会社のファッションプロデュースなどを手がけてきた。最近はファッション業界での人材育成や、パーソナルイメージプロデュースなどにも力を入れている。

 そんな鴫原さんのキャリアのスタートは、松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)の研究開発部勤務というから意外である。

「子供の頃、母に『これからは女性も手に職をつけなければいけない』といわれて育ち、高校は神奈川工業高校の産業デザイン科に入学しました。絵を描いたり人形の服をつくったりするのが好きだったので、将来はデザイナーになろうと思ったんです。

 卒業してからはファッションの世界に行きたいと思いスタイリストの専門学校に入学したのですが、半年後に父が体調を崩し、あまりのんびりしていられなくなりました。『親を安心させて欲しい』という両親の意向もあって、就職することになったんです。

 でも、入社してみると『これが日本の社会か…』とすぐ嫌になりました。研究開発部では図面を引く仕事に従事し、それ自体は面白かったですが、みんなと違う色のカーディガンを着ているだけで怒られたり、12時ぴったりに食堂へ行くと混雑しているので10分ずらして行くようにしたら『生意気!』と言われたり(笑)

私は高校のデザイン科で『人と同じ視点で考えるな! それではデザイナーとしての存在価値がない』と教育されてきた人間ですから、合うわけがありません。『社内結婚するのが当然』、『結婚したら社宅に入り、家電はすべてナショナルブランドで揃えなければならない』という雰囲気が濃厚にあるのも嫌でした。

 入社した翌年の春に父は亡くなったのですが、すぐ辞めるわけにもいかない。結局、この会社には1年半勤め退職しましたが、母は猛反対ですよ。大手企業に入ってエリートの同僚と結婚し、養子にきてくれたら万々歳と思っていましたから。

『会社を辞めてデザイナーになる』と言ったら母の怒りが爆発し、『デザイナーで食べていける人間なんてほんの一握りなのよ!』と激高されました。『でも、手に職を持ちなさいといったのはお母さんでしょ! これからは女の人が働く時代が必ず来るわよ!』と反論しましたが、手に職=国家資格と考えていた母にはなかなか理解されませんでしたね。

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