2006年9月14日 (木)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん⑥

「先例がないのなら、創りましょう!」

 専業主婦からの復帰後、鴫原さんは従来の業務に加えてファッション業界の人材育成や、パーソナルイメージプロデュースなどにも活躍の場を広げている。

「娘に仕事をやっていいと言われたちょうどその頃、JR東日本を通じ駅ビルの名店会で社員教育を含め何かやってくれないかと依頼があり、ディスプレイコンテストのコーディネートをはじめることにしました。ディスプレイや店頭販売方法なら10数年経験がありましたし、もう一度仕事をはじめるにあたり、最新の情報を常にキャッチしなければいけないアパレルよりは時間の流れがゆるやかなので、入っていきやすいと考えたんです。

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2006年9月13日 (水)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん⑤

すべての仕事をやめて、子育てに専念

 順調に実績を重ねていた鴫原さんだが、ある時、一斉に仕事を辞めて専業主婦の生活を送り始めた。再婚した夫との間に生まれた娘の訴えが、そのきっかけになったという。

「娘が小学校に入学して間もない頃、仕事で遅く帰宅したら『普通のお母さんがいい!』といって泣いたんです。以前、私が保育園の弁当を忘れたことがあって、字をおぼえたばかりの娘が、冷蔵庫に『おべんとう、えんそく』と書いていたこともありました。

その時は忙しくて気がつかなかったのですが、娘はずっとさびしい思いをしていたけれど気持ちを伝える術がなかった。それが小学校に入って言葉をおぼえ、感情を表現できるようになり、やっとその思いを訴えられるようになったんですね。

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2006年9月12日 (火)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん④

企画室長を請け負い、人気ブランドを育て上げる

 鴫原さんが独立したのは、ちょうど30歳のときだった。

30歳になったときに離婚して気持ちの整理をつけたかったのと、もともと独立したいという気持ちは常にありましたから。それ母に対して『認めて欲しい』という気持ちが根底にありました。一握りの人間でなくてもデザイナーとしてやっていける、女性として働き続けられると彼女に証明したかったんです。

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2006年9月11日 (月)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん③

最先端をいく2社で、週3日ずつ働く

 憧れていたファッションの世界に入り、実績を残しはじめた鴫原さんの目には、業界のいろいろな面も視野に入るようになった。

「テキスタイルデザイナーの先輩を見て、実力さえあればフルタイムではなく必要なときだけ来て働く働き方もできるんだと知る一方で、周囲を見るとデザイナーが現役で働けるのはだいたい35歳くらいまでとわかりました。しかし、それでは長く働けません。

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2006年9月10日 (日)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん②

返品の山を前にして、社長に伝えた言葉

 大手メーカーを退職した鴫原さんは、小さなアパレル会社でデザイナー見習いとして働き始めた。

「この会社は日本でデザインを描いて中国で生産し、量販店に卸す仕事をしていました。そこにはデザイナーが数名いて、週に一回、企画部長にデザインを提出することになっていましたが、私はデザインは描けても型紙を引くことができません。それである時、先輩のデザイナーに相談しに行ったら、私のデザインがそのまま盗まれた…。

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2006年9月 9日 (土)

ブランドプロデューサー 鴫原弘子さん①

ファッションビジネスをプロデュースする女性IC

Shigihara1 「女性起業家」はもはや珍しくなくなったが、「女性IC」の存在を目にすることはまだ少ない。ファッション業界を中心にブランド構築や人材育成等を手がけてきた鴫原弘子さんは、その「女性IC」の先駆者である。

鴫原さんは若い女性向けの人気靴ブランド「JELLY BEANS」の立ち上げから企画室長として携わり、同ブランドを展開するアマガサの急成長に貢献したのをはじめ、アパレルや大手通販会社のファッションプロデュースなどを手がけてきた。最近はファッション業界での人材育成や、パーソナルイメージプロデュースなどにも力を入れている。

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